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べびーめたる趣味

普段使いのBABYMETAL

ホンモノより上等なもの

 もはや文句を言うだけの熱意も残っていない。しかし熱が冷めて片栗粉が固まっていく過程の記録としてはそれなりに面白いとも思えたので、当面残しておくことにした。

 去年までは火力100%の中華料理だったのである。それが12月の横アリの意外なつまらなさで50%の中火になり、3月までのメディア露出を通じて茶碗蒸し程度のトロ火になり、ウェンブリーの時点でついに青雲のお線香ぐらいの燃焼力になった。いっぺん惚れ込んだものに対して、そう簡単に手のひら返しでツレなくするもんじゃないという意識があったので、半年ぐらいはなんとかネタを見つけて火にくべて、文章に仕立てる努力を続けてみたが、限界が来た。

 セカンドアルバムは今や100点中6点の評価だが、そのうち3.5点が水野由結、2.5点が菊地最愛と判断している。この2人の声質と言葉の扱いにはやはり非凡なものがあるが、なんにせよ曲がイマイチで、相変わらず添え物の域を出ていないから合計6点にしかならない。恐ろしい損失である。そしてその損失に輪をかけたのが、NRNR*1の衝撃的な出来栄えだった。思い返せばこれが一番体にこたえた気がする。夢と希望と妄想が、冷酷な現実に打ち砕かれた感じであった。

 東京ドームには思い入れゼロの完全リセット状態で行くことになるが、つきあいで初めてKinki Kidsを観たときのような新鮮な驚きがあれば、火力がよみがえる可能性がないわけではない。そもそも演芸というのは一回限りの瞬間的なものだから、過去に対する思い入れや未来に向けた期待を込めて見るものではない。いま目撃したものがよければよい、ダメならダメ、それだけのことだ。"応援" など論外である。それでもぶいろく(V6)なんかは、オッサンだけど歌って踊ってものすごくレベルの高いコンサートをやるわけである。日本のアイドル文化を舐めてはいかんのだ。外人と違って簡単には騙されないのである。あ、「来日枠」だからいいのかBABYMETALは。*2

 

「自虐」は最低限の知性


最初っからクソアイドルであるBiSHとは違って、
オワコンになる選択肢すら許されていないBABYMETALは切ない。
全世界の良心に訴えかけるようになったBABYMETALがオワコンになるときは、
全世界の希望が消滅するときだからである。
大風呂敷を広げるとなにかと大変です。

 

 メタルというのは "本質的に" ダサい音楽であって、そこに妙味があるわけだから、演るほうも自分独自のダサさを見つけて押し出して、自分でそれを笑っていかないと、ただの無意識で無自覚なダサいやつになってしまう。ハードコアをベースにして、EDM、ピコリーモをぐちゅぐちゅいじって遊んでればクールなまんまでいられたのに、そういう凡庸な路線はだめなんですよねやっぱり闘うBABYMETALは。

なぜメタルはダサいのか。それはメタルを構成するパーツと、そのパーツの組み合わせ方が、いちいちキチンとしていてお行儀がいいからである。タルんだところがないからである。そういう意味で、さくら学院とメタルは元々異質なものではない。むしろ親和性が高い。これがパンクだとベクトルが真逆になるが。

メタルなんていうのはアホが聴く音楽である。おのれがアホであることを深く自覚するための音楽である。そこに人格の陶冶に資するメタルの効用があるんであって、メタラーであることに誇りを持ったり、力を込めてメタルについて語り合ったり、未来ある青少年にメタルを勧めるなどというのは、真の意味でメタルに学ぶことがない、真正の阿呆である。ましてや、50年も60年も生きておいて、それでもメタルを聴いてるような輩は(おれのことか?)、相当なクズと言っていいだろう。

  秘すれば花と言うではないか。一方で、アホだから、ある程度「キチンと」してないとノレない、コンセプトが理解できないという問題があるのかもしれない。ええ。様式は気持ちイイのです。様式に身を委ねることで、悟りだって開けるのです。

 

 BABYMETALについては "菊地さんがなんとかしてくれる" と期待してたんだが、そこんところの失望も大きかった。「世界」という幻想に囚われてしまったBABYMETALは可哀想である。世界というのは半径1メートル範囲のことしか考えられない個人の集積でしかない。

 

 なんか自分でも変節したような気分になっていたが、BABYMETALのコンセプトがダサくなったっていう話は当初からしていたので、スタンスはなんにも変わってなかったことになる。RoRを初めて聴いたときにたぶん終わっていたのだ。あたしらの世代は、"We Are The World" の恥ずかしさが骨身にしみているのである。

 

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 「カップヌードル」として完成された世界を持っていたわけである。ところが「カップヌードルはラーメンじゃない」と言うやつが出てきた。元々ラーメンじゃないんだからほっとけばいいのに、今度は脊髄反射で、「カップヌードルは真正のラーメン」であり「ラーメンの未来なのだ」と強弁する者が現れる。なんだかラーメンじゃなければカッコがつかない空気になってきた。生麺になることを目指し始めたのである。もうカップヌードルの時代じゃない。昔を懐かしむ者は「ヌードルヲタ」(ドルオタ)とバカにされ、「素直に応援できないのか」「闘いについてこれないやつ」と言われて淘汰され始める。そして本物のラーメンになることを目指して生み出されたのが「マルちゃん正麺」であった。さっそく一流の麺職人に食わせてみたら、「いやー、これはもう生麺ですよ。まいったなー。今度ウチの店とコラボしませんかハハハ」ってホメられてしまった。「ホンモノ」に認められた(イナされた)のである。そうなると、「もうインスタントとは言わせない」と宣言するしかない。正統に擦り寄る日本人の技術はスゴイ。
 しかしカップヌードルの旨さを知ってる人間にしてみたら、生麺が食いたければ最初っから生麺を食えばいいのである。

 

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 私にとってBABYMETALとは「マガイモノが正統をコケにする芸」である。メタル帝国の末席に唯々諾々として連なるお人好しよりも、上等なマガイ物のほうが演芸の世界では格が高いに決まっている。それなのに、"品性" が邪魔をして、「コケにする」という乱暴な行いを意識的にできないのがBABYMETALの弱点である。しかし古来、天才というのは乱暴なものだ。どんなに大人しく振る舞っても、常人から見ればその能力差そのものが乱暴であるから天才なんである。そして乱暴という無意識は、意識的な批評する力と表裏一体でもある。BABYMETALはその力を効果的に発揮できる立ち位置にあったのに、自ら対象との距離をゼロにして、仲良く排水口に流されたいと願っているようだ。メタルという牧場の柵の中で、中途半端な賢さと戦略で獲得する「成功」は、芸の優劣とは何の関係もなく、角を矯めて牛を殺すことに他ならない。
 あるいはそれは、中元すず香という発光物質をターゲットの奥深くに埋め込んで、頃合いを見計らって内側から一気に支配権を奪う企てなんだろうか。たとえそんなことは意図していなくても、結果的にはそうなってしまうかもしれない。中元すず香だからである。力だけが存分にあって敵意が欠落した相手は防ぎようがない。批評するスタンスもされるスタンスもとらず、自分一人で燃え尽きるまで発光し続ける。ただし燃え尽きると言っても、星雲の寿命は単位が何桁も違うので、誰もその終わりを目にすることはない。

 

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中学ん時に初めてつき合った人以来のどストライク
この子はいい意味でも悪い意味でも、ソロよりも絶対(ヘンな)バンド向きだ
ましてや "演歌" なぞいう、伝統とは何の関係もないいかがわしいジャンルからは離れたほうがいい
今は歌よりもむしろ、喋ってるときの声の自然なウツクシサに希望がある気がする
そういうところに目が行くようになったのも、中元すず香を見てたからなのかもしれんが

 ダメな要素をぜんぶ腰からぶら下げて、それでもゴルゴタの丘に登っていくのが中元すず香だと言った。しかしドームなんぞいうだだっ広いだけのバカみたいな空間で、それがわかるわけがない。そういうことを確認する意味でも、ダメな部分をひたすら排除して出来上がった鈴木杏奈のライブは貴重である。

 ディベート大会でも、PROとCONどっちの側についてもそれなりにエビデンスを集めて議論することはできるわけだ。いったんカワイイと思ったら、持てる知識と経験を駆使して、あとからいくらでももっともらしい理由付けができる。BABYMETALに関する議論だって、良識の体現者みたいなすました顔でユーモアのかけらもないクソ真面目な独りゴトを言い募る "論者" も、カラクリはおんなじはずである。
 だからおれだって、今度は鈴木杏奈についてブログを書こうと思えば書けちゃうのである。実際に書きゃあしないが、カワイイが正義っていうのはそういうことでもある。

 じゃあ同じカワイイがベースにあったとして、何かを書きたくなるケースとべつに書きたくもないケースがあるのはなぜか。書きたくなる(かまってみたくなる)のは、そこに人間的な「おかしみ」があるからだ。おかしみとはすなわち「チャーム」でもある。BABYMETALはキャラ立ちしていて面白かったのである。この「おかしみ」というのは、芸を売る人間なら本来誰でも持っているべき特性だが、努力で身につくもんでもない。持って生まれた資質なんだから、あんまり「戦い」の演出ばっかりに気が行ってると、せっかくのチャームが枯れるぞ。運営側は、3人の人間的な面白さを無視してドブに垂れ流してると言っていいだろう。

 

おかしみでは鉄壁な女

 

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BABYMETALにハマるオッサンの気持ちを説明する文章を読んだ

「おっさんとは ~ なことを考えざるを得ない動物なんです」

オッサンとはオッサンの共感を簡単に得られると信じて語る生き物であるらしい
おれもオッサン(もしくはジジイ)だが、オッサンとどうしても仲良くなれない
オッサンと同席すると気まずくなる(オバサンはぜんぜんオッケー)

それにはどうやら

・おっさんは必ずしも酒を呑まない
・おっさんは必ずしも理屈っぽくない
・おっさんは必ずしもアイドルに抵抗があるわけではない
・おっさんは必ずしも分析が好きなわけではない
・おっさんは必ずしも自分の感情を人に説明してもらいたいわけではない
・おっさんは必ずしも真剣でピュアで全力投球なものを信じているわけではない
・おっさんは必ずしも言葉を持たないわけではない

とかいろいろ原因があるようだ

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BABYMETALは、個として鋭く立ち上がれと言っている。音楽が、演技が具体的にそう言っている。無前提に「ひとつ」になれなどと、その表現のどこに書いてあるのか。衆を頼む思想がBABYMETALのどこに潜んでいるのか。私は中元すず香に、慣れ合いや妥協や自己欺瞞を許すなと教わった。瞬間に命を燃やせと教わった。それは結局、ひとつになるな、一人になれということである。一人になれない者に「レジスタンス」ができるのかと、ステージの真ん中で屹立する尊厳が言うのである。

言いよるんじゃ。

私は中元すず香には Mass を感じない。口ではどう言ったとしても、何か理念なり標語なりを掲げてマスに働きかけて、その大勢の人間を一つの方向に走らせるタイプには見えないのである。背筋が寒くなるくらいの「孤」しか見えない。いつもボッチ、本質的にボッチな体質、あるいは芸風だからこそ、粛然と胸を打つのだと解釈している。中元すず香のアオりに違和感があるのは、本当はそんなことをやる人じゃないニオイが全身からにじみでているからだ。たぶん本人は違和感なんか感じてないんだろうし、自分の中の衝動の一つの表現方法として自然にやってるんだろうが、芸を享受する立場から言わせてもらえば、「もったいねぇなあ」って思う。自分のことは自分じゃわかんないもんだよ、とか。皆さんはどう感じてるんですか。

 

 

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本屋に何時間いても平気な女の子は
最高の友達である
                                        ―― りすぼん

 

 

 

べつに意味はないです(ないことにしとく)
このオリジナルピッチのシングルトラックバージョンが好きなだけ
(アルバムではボーカルがダブルトラックでピッチも高い)
このくそシンプルな曲と歌詞が
なんでここまで名曲になるのか聴くたんびに考える
でも1行ごとに意外なイメージがスパークする斬新な歌だったりする

 

10年前に買った本だが世の中何が起きるかわからない
大事なのは個人が立ち上がって

何かの奴隷でいることを拒否して
自分の頭と心で考えること
借り物の言葉は使わないこと
多くの人が言ってることは疑ってかかること
自分にとっての真実を探すこと

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*1:「小等部5年、中元すず香です!」という前フリを入れてほしかった。

*2:映画でも演劇でもどんな演芸でも、芸能に対して受け手が受け手の立場で評価して、好悪を表明するのは当たり前のことである。演者や制作者の "都合" を斟酌する必要などまったくない。特定の映画を酷評するコメントに対して、「じゃあお前は一本でも映画を撮ったことがあんのかよ」とか返してくる人間がたまにいるが、映画の世界ではそういう慌て者はめったにいない。しかしBABYMETAL界隈にはそんなのがわんさかいる。目標に向かってひたむきに努力して「結果を出して」いるし、「彼女たちはプロフェッショナル」だし、日本人が海外で活躍してるのにそれを「素直に応援」できないのはヒトデナシだというのがだいたいの文脈である。「自分ではなんにもできない無能な人間がBABYMETALを批判する資格があんのか」ってことである。「つまんない」って言っただけで人間性を否定されるような芸能は芸能の名に値しない。ピュアな子供として腫れ物に触るように扱ってみたかと思えば、プロフェッショナルであることを強調してみたり、なんだか「大国」と「発展途上国」を都合よく使い分ける中国とか、敗走を「転進」と言い続けた戦時中の軍部みたいだ。プロフェッショナルとして世界に雄飛しているのであれば、敬意を持ってプロフェッショナルとして扱うべきだし、世界のプロフェッショナルと比較して判断しなければ失礼というものである。ボーカリストにしても "神バンド" にしても、「ベビメタ枠」をハメて下駄を履かせるようなことは決してしてはならないということだ。それについては私もさんざっぱら加担したので同罪だが、たまにはボロクソに言われて一人前である。そうでなければ逆に可哀想なことになるんである。すでに相当可哀想なことになってると思う。またBABYMETALは角兵衛獅子の現代版とも言えるが、角兵衛獅子だって、厳しく芸を仕込まれても、学校にも行かせてもらえなくても、金銭目的で虐待されてる自覚なんか本人たちにはなくて、達成感や自己実現、成長の実感、親方との強い結びつきなんかもあったはずである。なんらBABYMETALと変わらないが、角兵衛獅子は人権侵害ってことになっている。なぜBABYMETALだけは違うのか。

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